みなさん、こんにちは! 京都在住ライターの左尾昭典です。
「ニンテンドークラシックミニ スーパーファミコン」(略して「ミニスーファミ」)の発売を記念してのインタビューも、いよいよ5回目。今回のテーマは『スーパーマリオワールド』と『スーパーマリオ ヨッシーアイランド』です。
スーパーファミコンのローンチタイトルとして発売された『スーパーマリオワールド』は、ヨッシーのデビュー作でもあります。そして、その5年後に発売された『ヨッシーアイランド』は、ヨッシーが初めてアクションゲームの主人公になったという記念すべきゲームなんですよね。というわけで、今回はヨッシーの話題を中心に、手塚卓志さん、日野重文さん、野上恒さんから話をお聞きしようと思います。
それでは、手塚さん、日野さん、野上さん、よろしくお願いいたします。
スーパーマリオワールド + ヨッシーアイランド篇
スーパーファミコンのローンチで
野上さんの代表作と言えば、『どうぶつの森』(※1)や『Splatoon(スプラトゥーン)』(※2)ですが、今回のテーマの1本である『スーパーマリオワールド』が発売されたときは、まだ入社していないんですよね?
※1 『どうぶつの森』=1作目は2001年4月に、NINTENDO64用ソフトとして発売されたコミュニケーションゲーム。以来、Wiiやニンテンドー3DSなどで、6作が発売されている。
※2 『Splatoon(スプラトゥーン)』=1作目は2015年5月に、Wii Uソフトとして、2作目は2017年7月に、Nintendo Switch用ソフトとして発売されたアクションシューティングゲーム。
野上
そうです。初仕事は『ヨッシーアイランド』でしたから。
スーパーファミコンが発売されたときは、大学生だったんですか?
野上
はい。大学の1回生だったと思います。
当時は1人のユーザーとして、『マリオワールド』を遊んでいたと思いますが、そのときの感想は、後ほどお聞きしますね。
野上
はい。
で、日野さん。日野さんと言えば『ピクミン』(※3)ですが、シリーズのほとんどに関わってきたんですよね。
※3 『ピクミン』=1作目は2001年10月に、ゲームキューブ用ソフトとして発売されたAIアクションゲーム。最新作は2017年7月に、ニンテンドー3DS用ソフトとして発売された『Hey! ピクミン』。
日野
そうですね。初代の『ピクミン』から、Wii Uで出た『ピクミン3』まで関わりました。そのあと『スーパーマリオメーカー』(※4)の開発では、『マリオワールド』のときに自分が描いた絵を、ゲームのなかで使う、という仕事もやりました。
※4 『スーパーマリオメーカー』=2015年9月に、Wii U用ソフトとして発売された、『マリオ』のコースを自作したり、人がつくったコースを遊べるソフト。なお、2016年12月には、『スーパーマリオメーカー for ニンテンドー3DS』が発売されている。
つまり、ずいぶん昔に自分で描いたドット絵が、『マリオメーカー』で蘇ることになったんですね。
日野
そうなんです。26年くらい前に描いた絵でしたから、すごく懐かしかったですね。
ちなみに日野さんの初仕事は、『マリオワールド』だったんですよね?
日野
入社2年目だったんですけど、世に出たゲームとしては、初仕事になります。
世に出たゲーム、ということは、世に出なかったゲームもあったんですか?
日野
はい。ディスクシステムで『ファミコングランプリ F1レース』(※5)の2作目をつくりまして、私はデザイナーとして参加したんです。
それって、清水(一伸)(※6)さんがディレクションしたレースゲームのことですよね?
※5 『ファミコングランプリ F1レース』=1987年10月に、ファミコン ディスクシステム用ソフトとして発売されたレースゲーム。
※6 清水一伸=『F-ZERO』や『F-ZERO FOR GAMEBOY ADVANCE』などの開発に関わる。今回のミニスーファミ発売記念インタビュー第2回「F-ZERO篇」に登場。
日野
はい、そうです。
2作目が発売できなかったという話は、第2回の「F-ZERO篇」のときに聞きました。つくったものをNOA(Nintendo of America)のスタッフに見せたら、けちょんけちょんに言われたとか(笑)。
日野
そんなことがあったんですね・・・。よくできてると思ったのになあ。
でも、だからこそ、『F-ZERO』(※7)が生まれたという話を聞きましたし、日野さんも入社2年目で『マリオ』という、任天堂の看板タイトルに関わることになったわけで、そのときはどんな気持ちでしたか?
※7 『F-ZERO』=ミニスーファミにも収録されている、近未来レースゲーム。1990年11月発売。
日野
やっぱり大きなプレッシャーがありました。スーパーファミコンと同時発売のタイトルでしたし、しかも前作の『スーパーマリオ3』(※8)が本当によくできていたので、それと比較されるとしんどいなあと思いました。なので、どうやってスーパーファミコンで新しい『マリオ』を表現するか、というところでずいぶん悩みましたね。
※8 『スーパーマリオ3』=『スーパーマリオブラザーズ3』。1988年10月に、ファミコン用ソフトとして発売されたアクションゲーム。ニンテンドークラシックミニ ファミコン発売記念インタビュー第3回「スーパーマリオブラザーズ篇」でも、『マリオ3』について語られている。
『マリオワールド』のディレクターだった手塚さんにお聞きしますけど、開発はいつ頃からスタートしたんですか?
手塚
昔の話なので記憶が・・・(笑)。確か、1988年からスタートしたと思います。
ということは、2年以内でつくった、ということですか?
手塚
『スーパーマリオ3』よりも短かったです。
クラシックミニ ファミコンの「スーパーマリオブラザーズ篇」のときにお聞きしましたけど、『マリオ3』の開発はちょっと迷走して、2年半もかかったという話でしたよね。
手塚
そうですね。『マリオ3』のときは、僕はディレクターをやりながら、自分で絵も描いていましたし・・・。
手塚さんがひとりで、いろんな仕事を抱えていたんですね。
手塚
ええ。だから、あまり抱え過ぎるのはよくないなあと思ったので、『マリオワールド』をつくるときは、僕が絵を描くのはやめて、日野に任せたんですね。
「マリオを馬に乗せたい」
ところでヨッシーについてお聞きしたいのですが、『マリオワールド』には大きな特徴がいくつかありますけど、そのひとつは、ヨッシーがデビューしたことですよね。
手塚
そうですね。
そもそも、どういう流れでヨッシーが生まれることになったんですか?
手塚
宮本(茂)が、「マリオを馬に乗せたい」と言ってまして・・・。
馬、ですか(笑)。
手塚
たぶん馬が好きなんだと思います(笑)。で、『マリオ3』をつくっているときに、マリオが馬に乗った絵を描いて、自分の席の壁に貼ってあったんです。それを見て、「マリオを何かに乗せたいんやなあ」と思っていたんですね。そこで、『マリオワールド』をつくることになり、「恐竜ランド」というコンセプトがあったので、日野に爬虫類系の絵を描いてもらうことにしたんです。
手塚
はじめは「馬」というキーワードがありましたので、かなりデカいものだろうと想像して、とりあえず大トカゲみたいな生き物を描いてみたんです。
大トカゲ、ですか(笑)。
手塚
ワニみたいなやつだったんです(笑)。
ワニとヨッシーじゃ、大違いですよね(笑)。
手塚
そうですね。それに、爬虫類系のものが、唐突にマリオの世界に出てくるというのも、違和感がありましたし、「たぶんワニみたいなもんじゃなくって」とか言いながら・・・。
つまり、2人で相談しながら、手探りでヨッシーの原型を模索したんですね。で、そのワニのようなものが、どうやってヨッシーの形になったんですか?
日野
手塚が描いてくれたラフスケッチがあって、それが可愛くていい感じでしたので、それを元にして仕上げて、いまのヨッシーの姿になったんです。
手塚
わりとそこは早かったですね。で、僕が強引に設定したんです。「これはカメの仲間だ」って(笑)。
だから、ヨッシーの背中にあるのは、鞍ではなく・・・。
野上
コウラなんですよね。僕が入社してからも、手塚はかたくなに「あれはコウラだ」と言い張ってましたし(笑)。
あははは(笑)。そうやって、カメの仲間のヨッシーがデビューした『マリオワールド』は、スーパーファミコンでは世界でいちばん売れたタイトルになりましたよね。
手塚
そうでしたっけ・・・?
手塚さん、とぼけないでください(笑)。
手塚
(笑)。そもそもハードと同時発売のタイトルは、新しい機能をいちばん最初に使えますので、たくさんのお客さんに驚いてもらえるという役得があるんですね。
なるほど。当時、お客さんだった野上さんは、『マリオワールド』を遊んで、どんなことに驚きましたか?
野上
いろんなことに驚きました。例えば、前と後ろに背景がついていて、かつ多重スクロールしていくので、「スーパーファミコンって、こんなこともできるんだよ」ということを紹介してくれてるような感じもあって・・・。
ファミコンにはなかった表現力に驚いたんですね。
野上
ええ。あと、印象的だったのが、金網がくるっと回るアクションで・・・。それに、金網の前にいたキャラクターが、後ろに入り込んだりして、ああいうのもファミコンにはなかった表現だったので、おもしろいなあと思いました。
まだ学生さんなのに、ちょっとプロっぽい見方ですよね(笑)。
野上
いやいや(笑)。
その頃から、ゲームをつくる人になろうと決めていたんですか?
野上
ゲームはすごく好きだったので、いずれつくりたいとは思っていましたね。
手塚
野上はゲームセミナー(※9)の1期生でしたしね。
※9 ゲームセミナー=「任天堂・電通ゲームセミナー」として、学生向けに開催された、ゲームづくりの実践講座。1990年より3回開催され、2003年より「任天堂ゲームセミナー」として再開されたが、現在は休止中。
野上
『マリオワールド』を遊んだのは、ゲームセミナーに入る前だったんですけどね。
ヨッシーで新しいアクションを
では、『ヨッシーアイランド』の話に移りたいのですが、発売されたのは1995年ということで、『マリオワールド』の5年後に出たんですよね。
手塚
はい。
どういう経緯で、ヨッシーが主役のアクションゲームをつくることになったんですか?
日野
『マリオワールド』の開発が終わってから、まったりと過ごす時間があったんですけど、そのときに宮本から「いつまで絵を描いてるんかな?」と言われたんです。
それはどういう意味なんでしょうか?
日野
当時の任天堂では、デザイナーといっても、絵を描くのは入社してから数年くらいで、その後はディレクターやプランナーになるのが暗黙の認識としてあったんですね。
つまり宮本さんは、「いつまでも絵ばかりを描いていないで、企画も考えなさい」と言いたかったんですね。
日野
そうなんです。そこで、それからはいろんな企画を考えるようになりまして、実験してはボツにする、みたいなことを繰り返す時期が続いたんです。そのときは、次の企画がコケたら、もう会社にはいられないな、と思っていたくらいで・・・。
そう思ったくらい、覚悟を決めていたんですね。
日野
はい。すると、あるとき、ヨッシーを主人公にすることを思いついたんです。それで、マリオシリーズのスピンオフみたいなゲームにしたらどうだろう、と考えるようになったのが、そもそものはじまりなんです。
それは、日野さんがひとりだけで考えたんですか?
日野
考えはじめたのは自分ですけど、手塚とはずっと相談していました。
その頃、手塚さんは・・・?
手塚
『神々のトライフォース』(※10)や『夢をみる島』(※11)といった、ゼルダシリーズなどのソフト開発に関わっていたんです。
※10 『神々のトライフォース』=『ゼルダの伝説 神々のトライフォース』。ミニスーファミにも収録されている、アクションアドベンチャーゲーム。1991年11月発売。
※11 『夢をみる島』=『ゼルダの伝説 夢をみる島』。1993年6月に、ゲームボーイ用ソフトとして発売されたアクションアドベンチャーゲーム。
だから、開発の合間に、日野さんから相談を受けていたんですね。
手塚
そうなんです。
日野さん、そもそもどうしてヨッシーを主人公にしようと思ったんですか?
日野
これは個人的な見解なんですけど、横スクロールのジャンプゲームでいうと、『マリオワールド』でやりきった感があったんですね。
ああ、なるほど。そのあとに『スーパーマリオ64』(※12)が出てきて、しばらくの間は、横スクロールではなく3Dアクションが主流になりますからね。
※12 『スーパーマリオ64』=1996年6月に、NINTENDO64用ソフトとして発売されたアクションゲーム。
日野
そうなんです。なので、横スクロールのアクションゲームでは、何ができるだろうというところで、ヨッシーを主人公にすれば、新しい遊びをつくることができそうだと考えたんですね。例えばヨッシーが何かを運んでゴールするとか、そういうことから考えはじめたのが、たぶん最初のスタートだったと思います。
ヨッシーを主人公にすれば、新しいアクションが生まれると・・・。
手塚
そうですね。実際に新しいアクションをつくりましたし、そのなかでもよかったな、と思ったのが、「踏ん張りジャンプ」なんです。あのようなアクションはマリオではできないことですし、アクションゲームが苦手な人へのお助け操作にもなると・・・。
ゲームを初めて遊ぶ人にも、楽しめるようにしよう、ということなんですね。
手塚
そうです。だから、敵に当たったときも、その場でダウンするんじゃなくって、復活する猶予があったりとか、初めて遊ぶ人も楽しめるように、新しいアクションを考えるようにしたんですね。
『スーパードンキーコング』の衝撃
そろそろ野上さんにも登場していただかないと・・・(笑)。
野上
はい(笑)。
野上さんが入社したときは、『ヨッシーアイランド』の開発はどんな状態だったんですか?
野上
僕が入社したのは、発売する1年半くらい前のことで、すでにヨッシーが主人公ということも決まっていました。
踏ん張りジャンプはしていたんですか?
野上
入社後に、宮本が踏ん張りジャンプをじっくり調整していたことは覚えていますので、その前のタイミングで参加した、という感じですね。
で、新人の野上さんは、どのように関わっていくことになるんですか?
野上
もともと僕はデザイナーとして参加したのですが、すでに「手描き風のグラフィックでつくろう」というコンセプトが決まっていましたので、それをどのように表現したらいいのか、というところからはじめました。
日野
野上が加わる前から、「手描き風」ということは決まっていたんですけど、どんなタッチで描くかについては、方向性が決まっていなかったんですね。そしたら入ったばかりの野上が、マーカータッチの絵を描いて見せてくれたんです。
野上
最初にマーカーで描いたのがとがった富士山みたいな背景で、それをスキャンして、どうやったらゲームに使えるようになるのか、2週間くらい試行錯誤をしたんですけど・・・・。
日野
それを見て「この方向でいける」となったんです。それが『ヨッシーアイランド』の絵づくりのターニングポイントでしたね。
そもそもどうして手描き風にしようと思ったんですか?
手塚
野上が入社した直後に『スーパードンキーコング』(※13)が発売されまして・・・。
日野
このゲームを開発したのは、イギリスのレア社(※14)だったのですが、任天堂社内でもすごく衝撃的だったんですね。というのも、スーパーファミコンでは見たことのないグラフィックでしたから。
※13 『スーパードンキーコング』=ミニスーファミにも収録されているアクションゲーム。1994年11月発売。
※14 レア社=『スーパードンキーコング』のほか、NINTENDO64用ソフトの『ゴールデンアイ 007』『バンジョーとカズーイの大冒険』などを開発した、イギリスのゲーム制作会社。
手塚
だから、社内の一部からは、「『スーパードンキーコング』みたいな絵にならないの?」という声もあったんですけど・・・。
日野
でも、あのようなグラフィックの真似をするには、もう不可能なくらい『ヨッシーアイランド』の開発が進んでいたんです。
デザイナーの3人だけで
つまり、後戻りができない状態だったんですね。
日野
そうです。そこで、『スーパードンキーコング』とは真逆にある絵づくりで勝負しようということになりました。
それが手描き風ということになるんですね。
日野
はい。それも半端なものではなく、手描き風をとことん追求した表現で対抗しようと考えたんですね。ところがあの頃は、さらに怖ろしいことがありまして・・・。
怖ろしいことって・・・?
日野
NINTENDO64の発売が翌年に控えていまして、ディレクターの手塚や紺野(秀樹)(※15)たちが、『スーパーマリオ64』などを応援することになったんです。
※15 紺野秀樹=主に『スーパーマリオカート』シリーズの開発に関わり、『マリオワールド』ではマップディレクターを担当。今回のミニスーファミ発売記念インタビュー第4回「スーパーマリオカート篇」に登場。
それって大ピンチじゃないですか。じゃあ、チームに残されたのは・・・?
日野
応援に行かれている間も相談にのってもらってはいましたが、私と野上、それにもうひとりのデザイナーの3人で頑張りました。
えっ、たった3人だけになったんですか?
日野
プログラムについては、SRDさん(※16)にお願いしていまして、歴代『マリオ』をやってこられていたので、安心してお任せできたんですけど、あとはデザイナー3人で、プランニングもやりながら、プロジェクトを回していた時期があったんです。
※16 SRD=株式会社SRD。1979年に設立された、ゲームソフトのプログラムの受託開発などを行う会社。本社は京都にあり、京都事業所が任天堂本社開発棟内にある。
野上さん、入社早々、ひどい目に遭ったと思いませんでしたか?
野上
いえ。いろいろやらせてもらえたので、おもしろかったです。
逆によかったと?
野上
はい。チャンスをいろいろもらえたというか、僕は背景を描くのがメインだったんですけど、敵キャラクターも考えて、絵も自分で描いて・・・。
日野
アホなキャラクターもね(笑)。
野上
あほーどりとか、アホ系はだいたい僕が描きました(笑)。しかも、最後はボスキャラも任せてもらえましたので、すごくうれしかったですね。
日野
そもそも、手塚や紺野たちが抜けたときには、すでにゲームの骨組みは決まっていたんです。だから、あとは部品を量産すればよかったんですね。
野上
でも、すごい数を量産しましたよね。朝にキャラを描いて、昼にプログラマーさんに発注して、夜に確認して、それでOKを出すみたいなことを、毎日まわしてましたからね。
日野
さらにネタも出して、ということを毎日繰り返した時期があったんです。で、そうやってつくっていった開発途中のものを、流通関係者に評価してもらうことになったんです。すると「評価がよかったぞ」ということになりまして、再びスタッフが戻ってきたんです(笑)。
評価がよかったので、みんなでちゃんと仕上げようと?
日野
そうなんです。その時点では、部品がそろったものの、ゲームのバランスがまったく取れていない状態だったんです。だから、きちんと商品として仕上げるためには、手塚や紺野、そして宮本たちの助けが不可欠だったんですね。
ヨッシーはビックリして舌を出す?
それでは最後の質問です。今回のミニスーファミの『マリオワールド』と『ヨッシーアイランド』のここに注目してほしい、というところがあればお願いします。
日野
絵的な話をしますと、『マリオワールド』のときに、マリオの目に初めて白目が入ったんです。
ああ、確かにそうですね。
日野
マリオの白目は、宮本にとっても悲願だったようで、それだけにチェックもすごく厳しかったんですけど(笑)。
(笑)
日野
ただ、個人的には『マリオ3』の黒目も味があっていいなと思っていたんですね。なので、ちびマリオは黒目だけにしました。
マリオの目に注目してください、ということですね(笑)。他に注目してほしいところはありますか?
日野
『スーパーマリオメーカー』の開発中の話なんですけど、『マリオワールド』のヨッシーが舌を出すときに、マリオの手が動いてるけど、何をやってるんだ、という話になったんですね。多くの人は、マリオが前に指をさしながら「行け」って言うことで、ヨッシーが舌を出してると思っていたようなんです。
そうじゃないんですか?
日野
実は、マリオがヨッシーの頭を叩くと、ビックリして舌を出す、という設定で、あの絵を描いたんです。
そうだったんですね(笑)。
日野
しかも、「ポコン」という音も付けてるんです(笑)。ただ、「ヨッシーがかわいそう」という声が聞こえてきそうでしたので、マリオが「行け」と言ってることにしました(笑)。
あははは(笑)。
野上
あと、サウンドについても注目していただきたいんですけど、この2作とも、近藤(浩治)(※17)が担当していたんですね。で、『ヨッシーアイランド』をつくっているときに、ボスキャラの音楽をお願いしたら、はじめはけっこうのんびりした曲があがってきたんです。そこで日野と一緒に、近藤に直談判したところ、すごくかっこいい曲があがってきたので、本当に感服しました。さすがだなあって(笑)。
※17 近藤浩治=『スーパーマリオ』や『ゼルダの伝説』シリーズなど、数多くのタイトルのサウンドに関わる。ニンテンドークラシックミニ ファミコン発売記念インタビュー第3回「スーパーマリオブラザーズ篇」に登場。
日野
そもそもサウンドって、ゲームがある程度かたちにならないと、曲づくりができないんですけど、こっちの仕事が遅かったこともあって、近藤もすごくヤキモキしていたと思うんですね。でも、終盤の追い込みがすごくって、エンディングのBGMが入ったときは、すごく感動しましたね。
野上
ホントに感動しました。
日野
あと、これを言っていいのか・・・実は『マリオワールド』で間違えていたこともありまして・・・。
と言いますと?
日野
『マリオメーカー』をつくっているときに、クッパの色が間違えていたことに気づいたんです。肌の色が緑になっていて・・・本当はオレンジのつもりだったんですけど・・・。
つまり、25年経ってからようやく間違いに気づいた、ということなんですか?(笑)
日野
そうなんです(笑)。看板キャラなのに、申し訳ないことです・・・。
ここを読んでる人には、ミニスーファミで確認してもらうといいかもしれませんね、クッパの肌の色も(笑)。
手塚
僕らも、確認用にスーパーファミコンのカセットを出してくることが多いんです。
カセットを1本1本、出してくるんですね。
手塚
ええ。でも、ミニスーファミがあれば・・・(笑)。
1台ですんじゃいますよね(笑)。
手塚
ええ。だからすごく助かるなあって(笑)。
(第6回は、『星のカービィ スーパーデラックス』です。お楽しみに)
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